ふるさとのこと

私はふるさとを愛してる。これは嘘じゃない。まことだと思う。

ふるさとを愛す行動が、必ずしもふるさとに暮らすこととイコールでなくてもいいと思う。でも、ふるさとに暮らす人間が減ればふるさとは滅びていく。春、ダムの近くの桜並木で花見をした後に、人々が抜けて行った村落を見せた祖父、祖母。あれは一体何の意図があったのだろう。意図など、無かったのだろうか。ただ無邪気に、私の知らないこの町のことを、見せてくれたつもりだったのだろうか。そうだろうな。

無邪気、という言葉を祖父母に使うのは、あまりにも礼を欠くものかもしれないが、しかしこの表現が一番しっくりくるのだ。祖父母は無邪気すぎる。かつての父も、そう思ったのだろうか。それは今でも、そうなのだろうか。

世界は変わっていく。あまりにも変わらない町、集落。いや、ほんとうは変わっているのだ。ずるずると、粘性のものが階段を滑り行くように、下落していっている。老いていくひとびと、枯れていく商店、町並みが固化し、ただ佇むだけの建物。老人ホームだけが真新しく木のにおいをさせ、明るく穏やかな光で白壁を照らし、ゆっくりと死に向かう人々をまどろませる。

あとどれほど持つだろう。

父の通った小学校はもう廃校になった。随分昔のことだ。私が幼かった頃には、あの建物を取り壊した。祭があるからと赤い着物でめかしこみ、よたよた歩いていた頃にはあの木枠にガラスのはまった戸があった。それらはもう、無くなってしまったのだ。

ゆっくりと滅びに向かう集落を眺めて、私はせつない気持ち以上のものを役立てることができるのだろうか。木を伐り道路を伸ばし続ける父のふるさとは、あとどれほど青田をそよがせ、まばゆい金の稲穂をなびかせることができるだろう。いつか死ぬ、いつか死ぬのだ。それをくいとめることはきっとできないという予感を振り払えない。本当は真っ向から否定できたらいいのに。あんなに思い出のあった景色は、あっという間に変化していく。そこに住む人間の手によってでは無く、そこを管理しうるだけの力を持つ者によって。今、畑で鋤や鍬を握り、田でトラクタやコンバインを操縦する老いた手が、いつか枯れ木のように動かなくなる日が来る。それは今日かもしれないし、三年後かもしれないし、あと10年後かもしれない。その日を恐れるだけの人間であってよいのだろうか。

父のふるさとの一つ下の集落に、県の大学生が来て祭を手伝っているのを見た。私は、正直に言って、あんなに嘘くさい、あんなごまかしのようなもの、と思った。苦労はわかる、やりたいこともわかる、それまでの努力もわかる。でもそれは、そこに暮らす人々との明らかな距離によって、私の目にいかにもしらじらしく映ってしまったのだ。あれはなぜだったのだろう。あれが余所者だったからだろうか、それとも、そこに掲げられた<正義>が、気持ち悪かったからだろうか。

それを突き止めれば、私のできることとできないこととが、見えてくるだろうか。