他人の意見を変えられないこと

もう多分ほとんどの場合において、私は他人の意見を変えることはできない、という実感がある。

こどもの頃は、多少弁の立つことを武器に振りかざし舌先で丸め込む、というようなきたないやり口を多用したものだが、大人になった今、もうそんな多少の巧妙を持ち出したところで、一個の他人を動かせはしない。それは、こどもの頃の自分が自惚れた武器の鋭さが、所属するコミュニティが大きくなるにつれて大したものでは無いと気付いてしまったことと、大人である私が対峙する他人もまた大人であり、それなりに剣戟を戦わしてきた来歴をそれぞれが持っているということが理由だろうとおもう。

大人である他人のテリトリーは、こどもの頃の私がずかずか入り込んで勝手に整地し水を流して「どうだ、恐れ入ったか」と言っていたような、泥遊びのぬかるみではない。ちゃんとした礎石があり、出来はそれぞれ、まあ言うまいが、風雨はちゃんと防ぐしその中で生活を重ねてきた場所になっている。そのテリトリーを領域外の人間が勝手に手を付け整地しようなどとすれば、管理者権限で断固追い出すことができるし、不法侵入を訴えることだってできるだろう。

大人になった私ができることは、自分の領地から柵の向こうの住人に向って話しかけることだけである。私が「もう夏になりますね。そういえば、我が家ではですね、緑のカーテンなんて大それたものじゃないんですが、ちょっと思いついて今年は朝顔を育てているんですよ。今はかなり蔓も伸びて、窓際がすずしいんです。花が開くと朝が一層すがすがしいものに思えてとってもすてきですよ」という話をしたとして、それが柵の向こうの人を動かすかどうかはわからない。

それに、もし他人を動かせたとしても、やはりその動かせる範囲には限定があるだろう。他人の領地の基礎にあたる部分に近ければ近いほど、それは揺るがないし、あるいはその部分に触れようとすると警戒されてしまう(所謂「地雷」というものだ)。

そういう基礎の部分で自分とは異なる意見を見ることは、一体ひとにどういう心理をもたらすのだろう。

私はもう、他人の意見を変えることができないと思っている(思い込んでいる)から、そういうものを見かけたらちょっと距離を置くか、見つかりそうにないところでもやもや悩んだりする。「(思い込んでいる)」というのは、地雷を踏むのを避けるためでもある。多少なりとも生きてきた分には多少剣を争ってきたという来歴が、無駄な戦いになるという予感を囁いて私を引きとどめる。

他人の意見を変えられはしないけど、あわよくば私の意見をあなたの心の隅にとどめておいてくれればとてもうれしい、というような感覚ならある。まあ、やっぱり自分の安心のためには自分の意見に同意してほしい(私のテリトリーにあるこれは他人のテリトリーにも類似例があり同じように有益なものとして認められているという客観的な保証と存在の正当性が欲しい)とおもうけれど、そういう強引な手管はもう好めない。そうして「此方側」に引き込んで共闘してくれと強請って見せるほど弱みを見せられないという矜持か防衛反応かというものができあがっているし、そもそも戦闘は自他ともに消耗が激しく、メリットが足許から地崩れ的に損なわれることがある。要するに戦うなら戦うだけの理由がないとやりあいたくないのだ。そのために相手を品定めするし、戦いを選ぶ。観察を経て、この戦争、この好敵手のために惜しみなく武器を揃え、自己の防御を固めつつ、場合によっては講和を受け入れることもあると柔軟に構える大局観も失わない―――、と、まあこれだけ用意するのも大変なわけだ。大人はたいへんだ。