自己愛と他者愛のこと

なんか今日どこかで「片想いは結局自己愛に過ぎない」というような言説を見たような気がする。それが、twitterだったのかtumblrだったのか、はたまた別のどこかだったのかは覚えていない。

ここで私がはたと違和感を抱いたのは、「片想い=自己愛」であることそのものじゃない。自己愛より他者愛(自己愛に対し他者を愛することをさす言葉をあまり聞かないのでこういう言葉を使うことにする。隣人愛…はもうちょっと別なものなのではないかとおもっているのだが学が至らずよくわからない)の方が素晴らしく、そこに到らなくちゃならないことのように語られていることだ。

自分のことを相応にかわいがってやることは生きていく上で必要なことだし、同時に人間として社会に生きていくなら他人に愛情を感じることがなくては滑らかに行かないことが多いだろう。どちらも必要だ。

でもつい、他者に愛情を注ぐことは本当に正しいのだろうかと考えてしまう。いや、嘘だ。ここで躊躇うのは、それは自分があの(誰かその時思い浮かべた)相手に実行していい行動だろうか、ということだ。自分は他者を愛していいのだろうか?それは他者の妨げにならないか?自分はいやなやつではないだろうか?

そう思った時、少なくともそうして躊躇いたたらを踏むとき、必ずしも他者愛のステージが用意されなくてはならないということは無いのではないだろうか。自己愛のまやかしが片想いだとしたら、そこから発展して他者愛を発揮するだなんて幻想じゃないのか?他者愛が崇高だなんて、嘘じゃないのか?自己愛を破棄しきることができないのであれば、他者愛を尊んでいたって何にもならないのでは?むしろ、自己愛の存在を認めたうえで、その自己愛の屈折した鏡像としての他者愛を、その像の由来を知って見るものなのではないのか?「自己愛に過ぎない」というワードは、自己愛を不当に下に見ようとする意図があるように感じるのだが?

それに他者愛って何だ?自己の愛する他者に愛される自己、という構造を期待しないで、他者愛を実現することって、そんなにほいほいできるものか?あるいは、他者を愛することで自己が満たされる、ということ無しには、他者を愛することなんてできないのでは?あくまで他者愛を実行するのは自己なのだから、自己の思考や意図をすっとばして実行することはできないはずだろう?

となると、片想いってなんだ?自己の愛する他者に愛される自己の想像なくして、片想いは成り立たないのだろうか?私が他者に抱く、自己が一方的に愛する(というより愛でる)他者がこんなにかわいくて自己が満たされて歓喜、みたいなのは一体何だ?それだって結局他者愛というよりも自己愛だろう?恋に自己愛以上の物を求めるのは無理なんじゃないの?

結局何だって自分の意志が完遂されてほしいというだけじゃないの?自己犠牲だって自分の意志であれば、それが完遂されることでエクスタシーを感じるんじゃないのか?自己愛と他者愛は同等のレベルにはなくて、自己愛のツリー構造の下に、その自己愛の欲求を満たすものとして他者愛があるのでは?とおもった次第である。

正直自分で何言っているかわからない。また何かつまずくようなことがあればまたうだうだ考えるでしょう。とりあえず今の私はこうもだもだ考えたという記録だ。