スポ根のこと

運動神経はからきしであるし、努力や継続を繋ぐだけの精神も無い

でも、がんばっているこたちを見るのはたいへんすきだ。

体育祭などのイベントに参加しようとしないひとびとは一定割合で存在する。彼らの考えていることが何なのか、(めんどくさい、だるい)なのか(非効率的、無駄)なのか、(かっこわるい、ださい)なのか、もっと複雑な思考を重ねて辿りついたことなのかはわからない。私はイベントがとてもすきだから、きっと多分彼らのことは何もわからない。

私は行事がたのしいから参加するだけで、それ以上に考えることはない。スポ根的な、頑張ろう、声出そう、一丸になって…というのは、正直何も考えなくていいから楽だ。脳味噌はとっても楽だし、指示のもとにゆるされた身体は、普段なら慎むべき大音声をあげ、あるかなきかの筋肉がその痛みに存在を主張するだけの活動の機会に、軋みながら自由を謳歌する。日常を生き延びることは、動物であるところの自分のさがを箍のように締め付け、ずっと圧力をかけることで、なんとかうまくいく型にしている。その箍が、ほんの少しだけゆるめられるとき、私は爆発的にゆかいな気持ちになるし、脳味噌の働きをおろそかにしてでも、この場でこのゆかいなきぶんを共有するお隣のひとびととわいわいしていたいとおもうのだ。

だがしかし、これはやはり隣人と共有してこそだ。

隣人がお通夜をしていたら、とてもじゃないがどんちゃんできたものではないだろう。ださい、不快だ、どうしてそんなことやらなくちゃならない、と言われたら、それを覆すだけの力をこちらは持たない。こちらはといえば、とにかくそのゆかいな気分だけで保っているのだ。理性的に考え、論理的に突き詰められたら、瞬く間にその「気分」は霧散してしまう。相手が「御託」を連ねて「無粋」なことをしてくるのだ、とは思うけれども、それじゃあやっぱり解決にならないよな。相手の言ってることが理性的で論理的である限り、求められる返答もこの二つを備えたものだろう。そうでなければ対等に差し渡すことはできない。それに、発言じゃなくそのひとのスタンスそのものをけなすのはルール違反扱いだろう。

もうちょっと考え合わすべきところがあるとおもうのでまた