忘れることと記録と記憶しておきたいとかのこと

物事は放っておくとすぐに忘れてしまう。自分はすぐに忘れてしまう人間であるとおもっている。

なんでも書いておきたいとおもってしまう。残せるものなら残しておきたいとおもってしまう。

それは今、年を重ねて、若く青い過去のことをなつかしんでしまうこころの作用に迫られて、少しでも過去が今である内に自分の人生に索引をつけておきたいとおもっている所為かもしれない。

昔、と言ってもほんの3,4年前、私は、すごい数のひとびとと、かなり近い距離で接していた。今から振り返ってみると、という話ではある。それが、若さというものを過去の自分が持っていたからであることも、十分にわかっている。そして、だからこそあんなに惹きつけられる記憶になっていることも。

今は、どうかといえば、どうだろう。

少なくとも去年よりはましだ。去年は、酷かった。今は、学校でひとびとと交流してなくもないし、授業にまじめに取り組んでなくもないし、調べ物や考え事に白熱することなんかもときどきある。エキサイティング。まるで学生のようだ。今までも学生ではあったけど、この一年であたらしいいきものにうまれかわったかのように感じる。あたらしいいきものって、要するに、学生だけど。でも、私は生徒から学生になったんだ、学校に繋ぎ止められて、ノートを取ってばかりじゃない、私は、学問を探求することとは――、みたいな変化では無い。もっと、こう、朝、目が覚めて、気付いたら庭の花がひらいていた――、という方が近い。今の私の根城に庭はないけど。とにかく、昨日と今日とでちょっとちがう、すべての細胞が入れ替わったわけでも、すべてのあんまりよくない思考が破棄されたわけでもない、ただ、気付いてみたらちょっとちがう、そしてその変化というのは、ちょっぴりよい気分だ、というだけだ。となると、あたらしいいきものという喩えは適切じゃなかったかもしれない。でも、やっぱり自分がいきものであるから、いきものと言うほうがしっくりくる。自分の外側にある花を見つめるよりも、自分といういきものに対する実感があるからだとおもう。

結語がおもいつかない。多分こうしてもわもわつらつら書いていくのだとおもう。